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日蓮って ver.31 [転載禁止]©2ch.net

222 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/06(月) 10:42:12.20 ID:hpT6LJZH
>>218
210ですが、たいへん興味深いですね。「正直捨方便」というのは羅什の漢訳文ですから、そこで「臆病な心を捨て去って」に対応するのは「今我喜無畏」としました。
ところで、金森訳のほうは「正直捨方便」を「臆することなく方便を与えて」と、「捨てる」のと逆に「与える」の意味になっています。
これは私が210で触れた「喜捨」の意味、すなわち、方便を「自分の手から放して差し出す」と言う意味になっています。

また後の植木訳は192のご指摘通り「臆病な心を捨て去って」とあり、これは英訳や仏訳に「近い」です。
ちなみに英訳では「すべての臆病を差し置いて」で、仏訳では「いっさいの躊躇(あるいは迷い)を捨てて」という感じです。

しかしながらこの章の全体を読めば、ここでいう「臆病」や「躊躇」は、釈尊が、それまでの教えを脇に退けて、法華経を説くべきか否かの臆病や躊躇のことだとわかります。
つまり他の経典が「法華経を説いてやりたいが如来以外には理解できまい、誤解されるのではないか」という如来の心の臆病や躊躇から出た方便であることを意味しています。
こうしてみると植木訳は、つまるところ羅什の漢訳「正直捨方便」の標準的な読解、すなわち「方便を捨てて法華経を説く」と意味において異なったものではないことになります。
この植木という人は岩波文庫の岩本訳に多くの致命的誤訳があると指摘していますが、翻訳の専門家でない一般読者にはさほど大意に影響はないと私のような素人目には思われます。

しかし初めの金森訳は、私は知りませんでしたが、斬新な読みですね。他の部分にもこうした特徴があるのでしょうか。

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